2010/07/19

わたしとシュガーPt1日本のダンホールの幕開け

わたしが初めてシュガーに会ったのはたぶん1983年かな
しゅがーがGoodthinggoingの大ヒットで日本に単独公演に来たとき大阪のコンサートだった
もちろんそのころわたしはただのレゲエ好きの高校生ではじめイギリスのロックが好きでエリッククラプトンをききその中の1曲にあったI shots the sheriffこの曲の原曲がボブマーリーということで当時通っていた梅田の輸入レコード専門店LPコーナーのおっさんにいろんなレコードを勧めてもらいピータートッシュなどレコードを聴きまくっていた高校生だった
レゲエに初めて興味を持ったそのころちょうど大学生になったときで珍しかったレゲエ関係の外タレの公演には楽曲を知らなくても必ず足を運んでいた
そのときに来日したのがアスワドやシュガーマイノットだった
このころレゲエのコンサートに来ている顔ぶれはいつも一緒でこのコンサート仲間がそのうちレゲエ友達になっていったなー(きくとかとくとかね)
もちろんそこのころはダンスホールなんて言葉もなくサウンドシステムなんか情報も一切日本になかったよ。
1985年位かなそのレゲエ友達のなかのカップル当時あいらんどに勤めていたゆかことさとねが天満と谷六の間〔家から5分の場所〕にレゲエばーを開くというので遊びに行ったらここがいわゆるボブマーリーではなくシュガーなどのダンスホール主体でかけるすっごい小さいがスタンドバーでここで初めてダンスホールをきいてかなり人生が変わった
ここでレゲエの7インチもはじめて知りした。この当時ジャマイカの7インチはほとんど手に入らず、増すイギリス経由の12インチだったな・・・
ここで知り合った仲間には今でも付き合いのあるゲットー君や仮集、そしてKingstonラウンジのツージーこととりがいクルーなど
そして’このころ東京でもランキンさんがサウンドシステムをはじめたり、レゲエ会社のタキオンが創設されシュガーが2回目の来日をその当時一緒にいたクリスウエインやホレスアンデディーなどと大阪に来て今度は本当にダンスホールのコンサートをしたりまたそのクルーがりずむぽっシーにきてラバダブをしてくれたり、そして直樹がDJ修行ジャマイカのにシュガーのところに行ったり。
はじめ日本では誰もサウンドシステムというものがわからなかった。それでシュガーが日本に来日するたびランキンさんや佐川さんがシュガーから教えてもらい東京の椿ハウスなどにシュガーの教えでシステムを組ラバダブスタイルを教えてもらい。これが今の日本のレゲエサウンドシステムの基礎となっているといってもがごんじゃないです。
シュガーがいなかったら今の日本のレゲエ ダンスホールはありえなかったです
この当時タキオンも何もわからなかったわたしたちに教えてくれるためサウンドシステムっていう雑誌を作ってサウンドシステム やダンスホールについて解説してくれたり
夏と冬に一回ずつシュガーやNYからダンスホールのアーティストを呼んでコンサートをやってくれたりしてました。
後手本はたまに日本にやってくるサウンドテープやユースプロのビデオでこれを見てダンスやファッションをまねてました。
(pt2初ジャマイカに続きます)

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